
政府が「皇族数を確保する」ために皇室典範の改正案を閣議決定して国会に出したというニュースが、世間を賑わせとる。女性皇族が結婚しても残れるようにするとか、旧皇族の男系男子を養子に迎えるとか、難しい理屈がずらりと並んどるわな。
元新聞記者の習性というか、こういうお堅いニュースを見ると、どうしても「で、うちらの生活に関係あるんか?」と考えてまう。永田町の上の方で決まるシステムの話は、どうしても体温が通ってへんというか、庶民の日常から遠いところにある気がしてならん。最先端のテクノロジーも、国会で揉めるややこしい法律も、うちらの暮らしの言葉に翻訳せんと、ただの「お飾り」になってまうからな。
ナス1本と、形を変えた回数券
そんなことを考えながら、午前10時に十三の賑やかな商店街へ買い物に出かけた。いつも行く馴染みの八百屋に立ち寄ると、店主(62)がスマホを睨みつけながら、「最近の電子マネーはややこしくて敵わん。画面ばっかり見とったら何が何だか分からんようになるわ」とボヤいとる。
デジタルやシステムに振り回されて、生活の実感が置いてけぼりになっとるおっちゃんの姿が、さっきのニュースと重なった。
私はスマホの画面を一緒に見せながら、「大将、これな、難しく考えんでええ。要は昔の回数券が形を変えただけやで。紙の代わりにここに数字が入っとるだけや」と教えてみた。
すると店主は、「なんや、そういうことか!」とパッと表情を明るくして、膝を打った。納得してくれたお礼にと、「これ持っていき」と立派なナスを1本おまけしてくれた。
こういうことなんやと思う。どれだけ時代が変わってややこしい仕組みができても、人間のやり取りには体温が必要やし、庶民の目線で「腑に落ちる」説明がなければ意味がない。
指先に残った昭和の匂い
夕方5時前、私は居間の座椅子に深く腰掛け、デジタルだのシステムだのに関する5冊目の専門書を読んで頭を捻らせとる最中やった。情報を頭に詰め込むだけでは、ただの受け売りになってまう。自分の頭で泥臭く考え抜かんと、本物の知恵にはならんからな。
そこへ、保育園から帰ってきたばかりの5歳の孫が、トコトコと走って近づいてきた。
「じいじ、これあげる」
差し出された小さな手の中にあったのは、少し潰れたタンポポの手向けやった。
「おぉ、ありがとな」
私は読んどった専門書の紙のページに、そのタンポポをそっと挟んだ。その瞬間、デジタル画面の読書では絶対に味わえん、どこか懐かしい昭和の匂いが指先に残った。カサついた紙の手触りと、孫のぬくもり。これこそが、うちらが守るべき「生活の実感」やないか。
どれだけ法律が変わろうが、社会のシステムがデジタル化しようが、うちらの路地裏の生活には、変わらん人間味がある。お上の決める難しいルールをそのまま消費するのではなく、「うちらの生活に関係あるんか?」と問い続けながら、泥臭く自分の言葉で語っていきたい。