Suno音源を濁らせない、帯域の静寂の作り方
真夜中の部屋、ディスプレイの青白い光が私の顔を照らしていた。ヘッドホンからは、AIが生成したばかりの音楽が流れている。完璧なはずのメロディとアレンジ、非の打ち所がないと誰もが言うだろうその音源に、私は拭い去れない違和感を覚えていた。

高音から低音まで、あらゆる帯域が隙間なく音で埋め尽くされている。それはまるで、視界のすべてを覆い尽くすほどの情報過多な現代社会を音にしたかのようだ。この圧倒的な音の壁が、私を窒息させるかのような目眩をもたらす。

完璧な音の壁、AIの悲鳴

Sunoが吐き出したトラックは、プロの作品と見紛うばかりの完成度だった。しかし、聴けば聴くほど、私の心はざわつく。そこには、私が本当に求めていた「静寂」や「切なさ」の居場所がない。

むしろ、完璧すぎるその出力は、人間の本音を巧みに隠蔽しているようにも思えた。すべてが整いすぎているがゆえに、感情の揺らぎや、生々しい衝動がどこかに消えてしまったかのような背徳感。技術が手軽になったからこそ、自分の心が置き去りになっているような焦燥感が募る。

子供の脳疲労、AIの濁り

そんな夜、dメニューニュースで流し見していた記事に目が止まった。6月10日配信の、小児科医・脳科学者の成田奈緒子氏による「子ども脳疲労」の記事だ。学校では真面目に振る舞う子が、家では不機嫌になったり、ダラダラしたりする。それは外での「合わせ続ける」ことで脳が疲れ果てたサインだという。

「外でできているのなら、家でもできるはず」という、かつて私も抱いたかもしれない傲慢な親の視点を、記事は静かに、しかし鋭く否定していた。子どもが家で見せる「不機嫌」や「ダラダラ」は、安心できる場所でようやく力が抜けた、脳からのSOSなのだ。

この一節が、私の創作上の行き詰まりと、AI音源への違和感に奇妙にシンクロした。AIが全帯域で完璧に「大人(人間)の要求」に合わせようとして、結果的に破綻し、音が濁っているのではないか。過剰に適応しようとして疲れ果て、意欲を失っていく現代人の葛藤と、AIの音が重なって見えたのだ。

音を削る快感、帯域の静寂

子どもが家でダラダラする「安心の余白」が必要なように、AI音源にも「帯域を殺す、静寂の空間」が必要なのではないか。私はSunoの過剰な出力を、EQ(イコライザー)で情け容赦なく削り取る作業に取りかかった。

中音域の濁りを大胆に削り、高音のノイズを殺す。あえて「何もない空間」を音の中に作り出す。それは、完璧なものを壊すかのような、狂気にも似た芸術的背信行為だった。しかし、その行為には、言いようのない解放感が伴った。

「外でできているのなら、家でもできるはず」という、これまでの創作における私自身の傲慢な思い込みからも、この瞬間、私は脱却しようとしていた。完璧であることだけが、表現のすべてではない。

不機嫌な旋律、人間の手触り

静寂の帯域を作ったことで、驚くべき変化が生まれた。削ぎ落とされた音の奥から、それまでノイズに埋もれていた「人間の生々しい感情」が、まるで泥の中から咲く一輪の花のように浮き彫りになったのだ。

かすれたボーカルの吐息、あるいはピアノのペダルが軋む微かな音。完璧なAIの中に宿った、ダラダラとした、しかし愛おしい人間の不機嫌さ。それは、決して完璧ではない、しかし温かい手触りを持っていた。

私の部屋には、静寂の中に響く、不機嫌で、しかし確かな旋律が満ちていた。これは、AI時代の新しい表現への、静かな夜明けだ。まだ見ぬ創作の衝動が、私の胸に確かに芽生え始めていた。

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