
新しい真っ赤なリップを手に取っても、どこへつけていくのだろうと虚しくなります。体形も崩れて、昔のお気に入りだった服はどれも似合わない。鏡を見るたびに、もう「女」としての私は終わりなのかな、と絶望的な気持ちになることもあります。月に一度、数時間しか持てない自分の時間で、高価なエステや遠出の旅行なんて夢のまた夢です。
銀座で見つけた「あの頃の私」
そんな閉塞感の中で、私は「着物レンタル 雅 銀座店」のドアを叩いていました。ネットで見かけた「大正ロマン復刻プラン」、一式13,200円。わずか2時間の非日常に、私は今の自分を賭けてみたかったのです。
店内に並ぶ着物は、どれも息をのむほど鮮やかでした。スタッフの方に勧められたのは、明治30年代以降にヨーロッパから輸入された化学染料で染められたというアンティーク着物。ポリエステルではなく、正絹(シルク)100% のずっしりとした重みが、死んでいたはずの五感をじわじわと覚醒させていくようでした。100年以上前の染料が、これほどまでに退色せず、鮮烈な色彩を放っていることに驚きました。
ルールは脱ぎ捨てる。赤の1点突破
着物というと、お行儀良く着こなさなければならない、という敷居の高さを感じていました。でも、アンティーク着物は当時の最先端ファッション。今の洋服のような感覚で、自由に着こなすのが本来の楽しみ方だったそうです。私の身長(160cm)だと、当時の日本人の体形(150cm前後)に合わせて作られた着物では「おはしょり」が出せません。でも、それがかえって良いと、あえておはしょりを出さない「対丈(ついたけ)」 で、ブーツを合わせることを提案されました。
そして、最後の仕上げ。メイクは自分で済ませていましたが、スタッフの方が「これに合うリップを」と差し出してくれたのは、「UZU BY FLOWFUSHI」のリップ(38℃/99°F Vol.2)の赤でした。普段は躊躇してしまう鮮やかな赤。それを唇にのせた瞬間、鏡の中の私の顔立ちが、80%も変わったような衝撃 を受けました。「これよ、これ!」と、思わず声が出そうになりました。そこにいたのは、紛れもなく「母でも妻でもない、中村あかね」でした。
品行方正な日常への叛逆
アンティーク着物を纏い、銀座の街へ一歩踏み出す。風に揺れる裾が、私の心の高揚をそのまま表しているようでした。すれ違う人々の視線が、普段とは違うことに気づきます。それは「さくらちゃんのママ」でも「〇〇さんの奥さん」でもない。一人の「女」 として、私に向けられている視線でした。
銀座の街角にあるアンティーク着物専門店「灯屋2」のウィンドウに映る自分を見つめました。そこにいるのは、どこか妖艶で、自信に満ちた女性です。たった120分、1万5千円足らずで、私は自分を取り戻せた。贅沢なエステや旅行に行かなくても、こんなにも心が満たされることがあるのだと知りました。
帰り道、ふと明日の夕飯の献立を考えている自分がいて、思わず苦笑してしまいました。でも、これでいいのです。日常に戻っても、この胸に灯った火種は、もう二度と消えないでしょう。私はまだ、知らない私に出会える。そう確信できた、贅沢なエゴイズムの一日でした。