OBSERVATION
2026-07-04

日常の殻を少しだけ破って。アンティーク着物を一人で試着してきた記録
デイサービスに母を送り届けた帰り道、ふと空を見上げました。秋の空は高く澄んでいて、どこか遠くへ行きたいような、でも行くあてもないような、そんな気持ちになります。夫は相変わらず「今日は何時に帰るんだ?」とばかり連絡してきて、まるで私の行動すべてを把握したがっているかのよう。たまには、誰の妻でも母でもない、「私」だけの時間があってもいいでしょう。

そんな時、スマホで偶然見かけたのが「キモノ・レトロ」というお店の広告でした。新宿の雑居ビルにあるというその店は、「1人限定30分セルフ試着プラン」が税込3,500円。カフェで1,500円のパフェを食べるのと、そう変わらない金額で、45分間だけ自分だけの時間を持てる。その響きに、なんだか背徳感にも似たゾクゾクする期待感を覚えました。

密室の情事、3,500円の誘惑

デイサービスの送迎を終え、夫からの「今日の夕飯は?」というメッセージには既読をつけずに、私は新宿の雑居ビルへと足を踏み入れました。エレベーターを降りると、そこには「キモノ・レトロ」の控えめなドア。一瞬ためらいましたが、意を決して扉を開けました。

中に入ると、まず驚いたのは店員さんがいないことでした。誰もいない空間で、ずらりと並んだアンティーク着物。まるで秘密の宝物を見つけたような、そんな高揚感に包まれます。普段、呉服屋さんに入ると「買わされるんじゃないか」とか「知識がないと冷やかされるんじゃないか」と身構えてしまう私にとって、この 店員の過剰な接客を100%排除 した空間は、まさに理想的でした。

15着の「大正ロマン」を独り占め

店内には、大正ロマンを思わせる艶やかなアンティーク着物が15着以上。どれもこれも、普段の私の生活には無縁な、華やかな色柄ばかりです。ここに来る人の92%が一人で来店していると知り、私だけじゃないんだ、と少し安心しました。

購入の勧誘は一切ないというのも、気兼ねなく楽しめる大きなポイントでした。誰にも邪魔されず、自分のペースで好きな着物を手に取り、鏡の前で合わせてみる。これはまさに、私だけの贅沢な時間。普段の生活で溜まった、夫の愚痴や親の介護の疲れが、少しずつ溶けていくような気がしました。

身丈150センチの罠を越えて

アンティーク着物は、現代の既製品よりも身丈が10cm以上短いものが多いと聞いていました。私の身長だと、きっと丈が足りないだろうな、と諦め半分でした。でも、このお店が提案していたのは「和洋折衷コーデ」。現代の洋服(Mサイズ相当)の上から、コーリンベルト1本で着崩さず羽織るという、ずる賢い方法です。

私は普段着ていたタートルネックとブーツの上から、選んだ着物を羽織ってみました。おはしょり(着丈の調整)を作る面倒なプロセスは100%省略。たった3分で、鏡の中にはいつもと違う私が立っていました。古い殻を脱ぎ捨てて、新しい自分に変身していくような、強烈なエロティシズムと興奮が込み上げてきます。

余談ですが、先日実家の片付けを手伝っていたら、亡くなった祖母が若い頃に着ていたという着物が出てきたんです。母は「もう着られないから」と捨てようとしていたけれど、もしかしたら、こんな風に工夫すれば、また日の目を見る機会があるのかもしれない、なんて思いました。

姿見の向こうにいた、見知らぬ悪女

レトロな姿見の前で、私はスマートフォンを取り出し、広角レンズで自分を撮り始めました。誰の目も気にせず、全身写真を5枚以上セルフ撮影。普段の私なら、こんなポーズは恥ずかしくてできません。でも、着物をまとった私は、まるで別人になったかのように大胆になれました。

スマホの画面に映る自分は、普段の家事や仕事に追われる私とはまるで違う、艶やかな「悪女」のよう。まだ私の中にも、こんな自分がいたんだ、と胸の奥が熱くなりました。この写真たちは、誰に見せるわけでもない、私だけの秘密の証拠です。

45分の密会はあっという間に終わりました。日常に戻る切なさはあるけれど、胸の奥には、この日生まれた「私だけの秘密」が温かく灯っています。たった3,500円と45分の時間で、こんなにも心が満たされるなんて。明日からまた、日常の役割を頑張れそうです。