
ここ3年以上、私は「〇〇ちゃんのママ」か「〇〇さんの奥さん」としか呼ばれていません。スーパーのレジでポイントカードを出す時くらいでしょうか、自分の名前を口にするのは。鏡を見ても、そこに映るのは「主婦」の顔で、かつて自分が持っていたはずの「女」の輪郭はすっかりぼやけてしまったように感じます。
そんな日常の中で、自分のためだけに1万円以上の予算を組んだり、丸一日を投資したりすることに、強い罪悪感がつきまといます。何か新しいことをしたいと思っても、「そんなことしてる場合じゃない」と、もう一人の自分が囁くのです。この息苦しさは、きっと私だけではないはずです。
片道15分の逃避行
そんな日々の中で、ふと目にしたアンティーク着物の情報が、私の心をざわつかせました。着物なんて、敷居が高くて私には縁のないものだと思っていました。呉服店に入ったら、数十万円もする帯や小物を強引に売りつけられるんじゃないか、そんな恐怖心もあって。
でも、そのお店「キモノノミライ」は、大阪の隣町にありました。電車で片道15分、運賃は240円。この 「絶妙な距離感」 が、私には魅力的だったんです。知っている人に会う確率は、きっと0.1%以下。誰の妻でも母でもない「私」として、ほんの少しだけ日常から逃げ出せる場所。
その日は、子供たちが学校へ行った後、そっと家を出ました。普段着のまま、リュック一つで。電車に乗っている間も、心臓がドキドキしていました。まるで、秘密の悪事を働きに行くかのような、微かな高揚感と緊張感。この小さな冒険が、果たして私に何をもたらしてくれるのか。
「お作法」を脱ぎ捨てて。11号の身体を滑り込む大正ロマン
駅から歩いて数分、古いビルの2階に「キモノノミライ」はありました。扉を開けると、優しい香りがしました。和装スタイリストの笹原エミさんが笑顔で迎えてくれます。45分間、3,500円の試着プラン。手ぶらで、心ゆくまで大正ロマンの着物を試せるという、その気軽さが私には救いでした。
試着室で、私は普段着ているLサイズ、11号の服を脱ぎました。アンティーク着物は、現代人の身長には丈が足りないことが多いと聞いていましたが、笹原さんは「あえておはしょりを作らない 『対丈(ついたけ)』スタイル で、洋服感覚で着るのが素敵なんですよ」と教えてくれました。
選んだのは、鮮やかな色合いの 大正浪漫絹織物(銘仙)。洋服のタートルネックを中に着て、ブーツを履いたまま。たった10分ほどで、アバウトに着付けられた着物が私の身体に馴染んでいく。鏡に映ったのは、普段の私とは全く違う、艶やかな姿でした。まるで、内側に眠っていた「女」が目を覚ましたかのような感覚。
鏡の中にいた「見知らぬ女」の欲望
鏡の中の私は、どこか挑発的で、それでいて憂いを帯びた表情をしていました。これが、私? 誰の妻でも母でもない、中村あかねという一人の女。数年ぶりに、自分のためだけにお金と時間を使った、この満足感。
笹原さんの話では、私のように一人で来店して試着体験をした主婦の方の9割以上が、「数年ぶりに自分のためだけにお金と時間を使った満足感を得られた」と感じているそうです。私自身、この言葉に深く頷きました。着物には「お作法」や「完璧さ」が求められるという通説は、一体誰が作ったものなのでしょう。そんなもの、今の私にはどうでもよかった。大切なのは、この身に纏った絹の感触と、鏡の中の自分から感じた、生々しい欲望でした。
家に帰ると、子供たちが「ママ、おかえり!」と飛びついてきました。いつもの日常が、私を待っています。でも、私の胸の奥には、確かに小さな火が灯っていました。あの着物が、私に教えてくれたのです。私はまだ、知らない自分に出会える。この小さな秘密は、きっと私を強くしてくれるでしょう。
あなたなら、どんな「秘密の時間」を過ごしたいですか?