
深紅の毒、鏡の私を捨てる
鏡の中の「完璧な妻」という仮面は、日を追うごとに肌に張り付き、本当の私の体温を奪っていく。この冷たさは、どこからやってくるのだろう。ラジオからは遠くで起きた事件のニュースが雑音のように流れているけれど、今の私には、窓の外の日常よりも、この鏡の表面に滲む冷たさの方がずっと現実味を帯びている。
深紅の毒を飲み干す夜
私の中に澱のように溜まっているのは、言葉にできない不満や、抑圧された情念だ。私はそれを、あえて「深紅の毒」と呼んでいる。家事の合間、ふと手にとったワインの赤や、高揚感を求めて塗り重ねたルージュの色が、その毒の視覚的な正体のように思えることがある。
「完璧な私」を維持するために飲み干してきた、数え切れないほどの我慢。それが毒となって私の内側を蝕み、少しずつ本心を殺している。そんな自分への隠微な嫌悪を抱えながら、今日もまた、誰かの妻であり、誰かの母という役割の皮を被り直す。その行為そのものが、今の私にとっては自虐的な快楽にも近い。
砕け散る偶像の破片
もう、この鏡の中の幽霊のような存在には飽き飽きしている。私は洗面台に置かれた重たいグラスを手に取り、鏡に向き合った。ひんやりとしたガラスに指先が触れる。この冷たさこそが、今の私の生の実感だ。
鏡の中に映る自分を見つめ、そのまま迷いなく一撃を加える。鋭い音が響き、視界が一気に歪んだ。破片となって床に散らばったのは、かつて私が守りたかった「理想の自分」という名の偶像だ。仮面が剥がれ落ちた鏡の向こうには、ただの虚無が広がっている。心臓の鼓動だけが、やけに鮮やかに聞こえる。
剥き出しの肌に触れる冷気
床に飛び散ったガラスの破片が、朝の光を乱反射させている。その光景を眺めながら、私は自分の腕を抱きしめた。鏡というフィルターを通さず、こうして自分の手で肌に触れるのはいつぶりだろう。装飾を削ぎ落とした、無防備で生身の私だけがそこにいる。
この空っぽの鏡の向こうには、明日から始まる「何者でもない」夜が待っている。破片を踏まないように慎重に歩きながら、私は自分の肌に伝わる冷たい空気の感覚を確かめた。この痛みと、静謐な孤独こそが、ようやく手に入れた私の現実だ。明日からは、この剥き出しの感覚を頼りに、誰のものでもない私自身の時間を、もう少しだけ深く噛み締めてみたい。
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