ふと、シンクの向こうの窓ガラスに映った自分の顔を見て、はっとしました。そこにいたのは、間違いなく私。でも、誰かの妻で、誰かの母で、家の雑事をこなす「役割」としての私。鏡に映るその顔は、私が本当に私だと思える顔とは、少し違っていたのです。
「あれ、私って、こんな顔だったっけ?」
そんな漠然とした不安が、最近、私の心を支配することが増えました。
錆びついた鏡に映る私
子供が生まれてから、もう6年。専業主婦として、朝から晩まで家族のために動くのが当たり前の毎日です。大阪のこの家で、夫と子供たちとの暮らしは幸せなはず。なのに、時々、深い虚無感に襲われることがあります。
先日も、上の子が熱を出して、夜中に何度も起こされました。朝にはもう平熱に戻っていたけれど、疲れが抜けなくて。それでも、夫はいつも通り会社へ、子供たちは保育園へと送り出し、私はまた一人、散らかったリビングでため息をつく。
こんな時、ふと、昔のアルバムを開いてしまうのです。独身の頃、友人たちと旅行に行った時の写真。好きな服を着て、好きなメイクをして、笑っている「私」。あの頃の私は、もっと自由で、もっと輝いていた気がして。
「今、私はどこにいるんだろう」
そんな問いが、胸の奥で小さく響くのです。
5万円の「裏切り」と心の囁き
そんなある日、SNSを眺めていると、たまたま目に入ったのが「自分だけのポートレート撮影」という広告でした。キラキラした女性たちが、自信に満ちた表情で写っている写真の数々。
「Studio Lumiere」や「Photo Atelier Grace」といったスタジオの名前が並んでいて、そこには「30代〜50代の女性に人気」という言葉が添えられていました。平均予算は 5万円 ほどだと書いてあります。
「ご、5万円…!?」
思わず声が出ました。家族4人でちょっといいレストランに行ける金額です。子供たちの習い事の月謝にもなるし、夫のスーツだって買える。このお金を、自分だけのために使うなんて、そんな「贅沢」をしてもいいのだろうか。
一瞬、夫の顔、子供たちの笑顔が脳裏をよぎり、罪悪感が胸を締め付けました。「ダメだ、私だけが楽しむなんて…」と、すぐにブラウザを閉じようとしました。
でも、その手を止めたのは、心の奥底から聞こえる小さな囁きでした。「ねえ、あかね。あなたは、いつまで誰かのためだけに生きるの?」。この抗いがたい衝動は、まるで禁断の果実を求めるかのように、私を強く引き寄せたのです。
レンズの向こうで出会う私
葛藤の末、私は思い切って「Studio Lumiere」に予約を入れました。平日の午前中。子供たちが保育園に行っている間に、こっそり。夫には「友人とお茶に行く」とだけ伝えました。
撮影当日の朝は、なんだか遠足に行く子供のように、胸が高鳴っていました。いつもより丁寧にスキンケアをして、新しい真っ赤なリップをポーチに忍ばせました。
スタジオに着くと、温かい笑顔のスタッフさんが迎えてくれました。そして、まずはプロのヘアメイクさんとの時間です。オプションで 1万円 ほどかかりましたが、これは絶対に譲れないと思っていました。鏡の前の私が、魔法にかかったようにみるみる変わっていく。
「どんなイメージがお好みですか?」
ヘアメイクさんが優しく尋ねてくれます。「そうですね…強くて、でもどこか儚い、大人の女性、でしょうか」と、普段の私からは想像もつかないような言葉が、すらすらと出てきました。
フォトグラファーのSatomi Moritaさんも、とても気さくな方でした。最初は緊張でガチガチだった私の表情も、彼女の優しい声かけと的確な指示で、少しずつ柔らかくなっていきます。「そうそう、その目線!」「すごく素敵です!」
レンズの向こうで、私が笑う。私が佇む。私が、私でいる。
撮影が進むにつれて、私はまるで日常の殻を脱ぎ捨てていくような、不思議な解放感を覚えていました。誰かの妻でもなく、誰かの母でもない。ただ、私。中村あかねという一人の女性。
そして、モニターに映し出された写真を見た瞬間、私は息を飲みました。そこにいたのは、紛れもなく私。でも、私が知っている私とは、まるで違う。自信に満ちていて、少しだけ挑発的で、そして、とても美しい「私」でした。
誰にも言えない秘密の宝物
撮影から数日後、データが届きました。私はそれを、誰にも見つからないように、パソコンの奥深くに保存しました。夫にも、子供たちにも、もちろん見せるつもりはありません。これは、私だけの、秘密の宝物だから。
子供たちが寝静まった夜、私はそっとパソコンを開き、写真を見返します。そこには、あの時の高揚感と、自分を取り戻した喜びが、鮮やかに焼き付いていました。
この写真を見るたびに、私の中に、静かな自信が湧いてくるのを感じます。「ああ、私はまだ、こんなにも輝けるんだ」と。
この「秘密の投資」は、一見、家族にとっては何の役にも立たない、私のわがままな贅沢かもしれません。でも、不思議なことに、この写真が私に与えてくれた精神的なゆとりは、確実に家族への接し方を変えてくれました。
以前は、ちょっとしたことでイライラしたり、子供たちに強く当たってしまったりすることがありました。でも、今は心に余裕ができたように感じます。夫に対しても、以前より穏やかに接することができるようになりました。
先日、夫が「最近、あかね、なんかご機嫌だね」と、嬉しそうに言ったんです。私はただ、にっこり笑って誤魔化しました。まさか、私がこっそり自分に5万円も投資して、とっておきの「私」を撮ってもらったなんて、想像もしていないでしょうね。
この写真は、私の「私」を支える、大切な柱になりました。これからも、私は誰かの妻や母であると同時に、私自身であり続けるために、自分に投資することを諦めません。週に一度のカフェでの日記も、また再開しようと思っています。
だって、私の心が満たされていなければ、家族を心から愛することもできないから。
それは、私だけの、密かなる決意です。