深夜、青みレッドを見つけた
隣で夫が寝息を立てている横で、青白い画面をスクロールしていた。裏垢の通知が来るたびに開いて、確かめる。誰かに見つけられたい欲望と、でも誰にも見つからない孤独が、静かに同居している時間。
何が欲しいのか、自分でも正直わからない。「いいね」なのか、返信なのか、それとも単純に、誰かに「お前はここにいるな」と確認されたいだけなのか。
ふと指が止まった。真っ赤なリップの写真。MAC ルビー ウー。青みがかった、深い赤。その口元だけが「誰かの妻でも母でもない顔」をしていた。
夜中にスマホを握りしめながら画面を眺めているのは、私だけじゃない気がする。あの時間帯に裏垢を動かしている女たちは、みんな何かを手放したくて、何かを探している。承認欲求、と言ってしまうと薄くなるな、と思う。もっと根本的な、「私はまだここにいる」という確認作業に近い。
リップが先、着物はあと
翌日、そのリップを買った。
家に帰って塗ってみたら、思った通りの顔になった。問題は、この赤に何を着るか、だ。
普通の順番は逆だろう。着物を先に決めて、メイクを合わせる。でも私はそれを逆にやろうと思った。この青みレッドを基準に、それに見合う一着を選ぶ。着物が私に合わせる、という順番。
調べているうちに、面白いことが出てきた。「赤リップに赤の着物はやりすぎ」という話をよく聞くけど、どうやらそれは思い込みらしい。歌舞伎や文楽の衣装では、口紅と着物を同系の赤でまとめる「総赤(そうあか)コーデ」は、格調と威厳を出す技法として長くあったという。明度差が20%以上あれば、品格になる。
頭では「藍色か墨黒かな」と思いつつ、でも総赤も捨てられなくなった。どちらが正解かは、実物を見ないとわからない。
行けない理由、何ヶ月も
隣町にアンティーク着物のセレクトショップがある。ずっと気になっていた。
でも何ヶ月も、行けていない。
理由は単純で、段取りの問題だ。土日は子どもの習い事と家族の用事が入る。平日に動くには夫に子どもを頼むか、保育を使うか、調整が要る。念のためスケジュールを空けても、直前で「やっぱりちょっと難しいかも」となり、キャンセルする。そのくり返し。
竺仙や銀座もとじみたいな老舗では、試着1着あたり15〜20分はかかるらしい。3着比べるだけで1時間を超える。閉店2時間半前には入っていないと、そもそも十分な接客が受けられないという話もある。午後の早い時間帯、余裕のある平日、という条件が重なる必要がある。
全部わかっている。それでも動けなかった。
たぶん本当の壁は段取りじゃなかった。自分のためだけに半日使うことへの、うっすらとした後ろめたさだ。誰からも必要とされていない時間を作ることへの、妙な罪悪感。家族のスケジュールが詰まっているとき、私の「着物が見たい」は一番後回しになる。当然みたいに。
余談だけど、今朝洗濯物を畳んでいたら夫のソックスの片方がどこにも見当たらなくて、20分くらい探した。結局出てこなかった。そういう時間が積み重なって一日が終わっていく感じ、なんとなくわかる人いないかな。
来月、一人で行くと決めた
だから、ちゃんと決めた。日付を入れる、と。
夫に話した。来月の平日に、子どもを預かり保育に出して半日もらいたいと。あっさりOKが出た。言えばよかっただけだった。ずっと。
白紙で行くつもりだ。「藍色がいいかな」という仮説は持ちながら、でも実際に光の中で試着してみないと何もわからない。むしろ白紙のほうがいい気もしている。「正解を決めてから行く」より「身体で確かめに行く」方が、たぶん本当の答えに近い。
この口元に合う一着を、自分の目で選ぶ。
それだけだ。それだけのことが何ヶ月もできなかったけど、今はなぜかすんなり動けている。何が変わったのかよくわからないけど、まあいい。動けるときに動く。
来月が、静かに楽しみだ。
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