55歳、UL登山の深化

55歳、UL登山の深化

午前2時。横浜の自宅で、ふと目が覚めてギアの整理を始めた。部屋の隅に転がっている古いザックからは、埃と少しだけ時間が経った匂いがした。55歳にもなると、自分の体力が決して無限ではないことを、骨身に沁みて理解するようになる。かつては何でも詰め込める大型のザックを背負って山へ向かっていたが、今振り返れば、重たい過去を背負いすぎていたのかもしれへんな。

ザックの重さと向き合う

昔の山行記録を見返すと、今の自分には到底考えられないような重量を背負って歩いている。まるで重い荷物を背負うことこそが、山に対する礼儀や覚悟だと思い込んでいたんやろう。でも、体が年齢を重ねていく中で、その「重さ」は次第に自分を縛り付ける鎖になっていった。

深夜、床に広げた道具を一つひとつ手にとって眺める。必要なものと、ただ不安を埋めるために持っていたもの。本当に大切なのは、己の足でどこまで行けるかという、シンプルな純度だけなんや。

軽やかさが変える景色

最近はUL(ウルトラライト)という考え方に触れ、道具選びがずいぶんと変わった。Naturehikeの幕を張る手間は、慣れてしまえば数分で終わる。何より、肩に食い込むような重い圧迫感から解放されたことで、山の空気がこれまでとは全く違うものに感じられるようになった。

冷たい山の風が吹き抜けるとき、体と自然の境界線が少しだけ曖昧になる。重い荷物を捨て、風と共に歩くことで、ようやく自然と同化する感覚が、この歳になってようやくわかってきた気がするわ。

ラジオと山の孤独

山中、ポケットのラジオから流れてくる天気予報や街の喧騒は、まるで別世界の出来事のように遠く響く。文明のノイズが消え去った静寂の中で、ふとクマの気配を感じて背筋が伸びる瞬間がある。あの緊張感こそ、人間が本来持っている野生への回帰なんやろうな。

世間ではいろんなニュースが駆け巡っているみたいやけど、目の前の稜線と、自分の足が刻むリズム。それ以外のことは、山の中では何の意味も持たへん。この孤独と隣り合わせの緊張感こそが、私にとっての「冒険」なんやと再確認する。

次の谷へ、またひとつ身軽に

下山して温泉に浸かると、湯気の中に一日の疲労が溶けていくのがわかる。帰りの電車の窓から流れる京都の景色を眺めながら、次はどの尾根を歩こうかと考える時間は、何よりも贅沢や。

今の自分には、まだ試したいギアがたくさんある。何歳になっても、未踏の地に足を踏み入れる情熱だけは枯らしたくない。明日からは、もっと荷物を削ぎ落として、身軽に外へ出てみようと思う。そうやって、少しずつ自分を研ぎ澄ませていくんや。

🛒 おすすめ商品