
母の世代でさえ、孤独や刺激への渇望をデジタルに求める時代になったのか、と妙に感心してしまいました。ふと窓の外を見ると、ベランダで育てている紫陽花が、少し色あせながらも雨に耐えて咲いています。私の手元には、北新地の喧騒から持ち帰った、ある種の「熱量」のようなものがまだ残っている気がします。
渋谷の広告が映すもの
先日、渋谷の街で「既婚者専用マッチングアプリ」の広告を見かけました。SNSでは賛否両論、というか、どちらかといえば「日本も終わりか」といった冷ややかな反応が多いようです。
けれど、私はこの現象を、単なる「不倫の助長」として切り捨てるのは少し違う気がしています。人間は、たとえ家庭という守られた場所にいても、自分という存在を誰かに認めてほしい、新しい刺激に触れたいという渇望を、最後まで手放せない生き物だからです。
匿名という盾の重さ
私は定期的に、大阪の夜の街で人間観察を続けています。アプリの向こう側にいる人たちが、プロフィールという「仮面」の下にどれほど深い孤独を抱えているか。それを言葉にしていく作業は、泥臭いけれど、人間の本質に触れる唯一の手段だと感じています。
今回のアプリの広告を見て感じたのは、そこに書き込まれた建前や、逆に剥き出しの欲望の深さです。「セカンドパートナー」という言葉が定着しつつあるのも、現代人が抱える「関係性の閉塞感」の裏返しではないでしょうか。
余談ですが、最近気になっているのは、街でよく見かける「やたらと高い高級食パン屋」の行列です。あれもまた、日常の中にある小さな「非日常」や「ちょっとした自分へのご褒美」を求める現代人の心理の現れのように見えて、つい観察してしまいます。
理想と現実のグレーゾーン
もちろん、軽はずみな行動が家庭を壊すリスクは否定しません。山崎くんが言っていたように、他人の人生や子供の未来を背負う重みを、デジタルな出会いの先でどれだけ想像できているのかは問われるべきでしょう。
しかし、既婚者であっても「一個の人間」として誰かを想う気持ちまで、社会がすべて否定できるのか。そんな疑問が、渋谷の広告一つでこれほどまでに議論を呼ぶこと自体、私たちが結婚制度の「理想」と「個人の本能」の間で、いかに葛藤しているかの証左のように思えてなりません。
問いかけてみたいこと
アプリは単なるツールに過ぎません。それを使って何をし、どんな責任を負うのか。結局は、自分自身の孤独とどう向き合い、どんな人生を選び取っていくかという問題に集約されるはずです。
綺麗ごとを並べるのは簡単ですが、私たちは皆、誰かの配偶者である前に、一人の人間です。もし、あなたが自分の日常の中に、家族や仕事以外の「新しい何か」を求める瞬間が訪れたとしたら、その時、あなたならどう自分自身と折り合いをつけますか?