猫とHHKBの優しい距離

猫とHHKBの優しい距離

世間では「もっと人に歩み寄るべきだ」とか「大切な人ならすべてを受け入れるのが愛だ」なんて言われることがよくあります。でも、その言葉を真に受けて自分の領域をすべて差し出してしまうと、いつの間にか心がすり減って、自分の人生なのに自分でコントロールできなくなっているような焦りを覚えることはないでしょうか。

環境が変わってひとりの時間が増えたとき、ふと押し寄せる孤独感の中で「私が悪かったのかもしれない」と自分を責めてしまう夜もあります。けれど、すべてを受け入れることだけが正解ではないのかもしれません。

日常のほんの小さな工夫から、大切な存在を愛しながらも、自分をすり減らさずに生きていくヒントを見つけたような気がしています。

私の小さな領土と、やわらかな侵入者

夕暮れ時、一人きりの部屋には、窓から差し込む静かな光だけが広がっています。新しくスタートした生活の中で、私は自分のために少し奮発して、上質なキーボード(HHKB)を新調しました。

指先をそっと乗せ、これからの自分の時間を紡ぎ出そうとタイピングを始めると、どこからともなく、白くてやわらかな足取りで愛猫が近づいてきます。そして、当然のような顔をして、キーボードの真上にその小さな体を横たえるのです。

ずっしりとした猫の重みと、じんわりと伝わってくる温かい体温。それはとても愛おしい瞬間であると同時に、せっかく進み始めた作業が強制的に中断してしまう瞬間でもあります。

画面には「あああああ」と謎の文字列が並び、私は小さくため息をつきます。「今は私の時間なんだけどな」という戸惑いと、目の前の小さな命への愛おしさの間で、私の心はかすかに揺れ動いていました。

二つの音が重なる場所

それでも、無理に引き離すことはせず、しばらくそのままで静かに過ごしてみることにしました。

猫が少し体勢を変えた隙間に指を滑り込ませて、静かにキーボードを叩いてみます。HHKBの、すとんと心地よく落ちるような静かな打鍵音が、しんとした部屋に響きます。すると、それに呼応するかのように、猫の喉から「ゴロゴロ」という低く温かい音が漏れ聞こえてきました。

すとん、すとん、という私の刻むリズムと、ゴロゴロという猫のやわらかな呼吸の音が、不思議なほど優しく重なり合っていきます。

そのとき、部屋の中の空気がとても穏やかに満たされていくのを感じました。他者と同じ空間にいることの安心感が、頑なになっていた私の心を少しずつ解きほぐしていくようです。相手をすべて拒絶して心の殻に閉じこもらなくても、お互いの存在を認めて、優しく共存する心地よさがそこにはあるのかもしれないと、静かに思い至りました。

透明な屋根が教えてくれたこと

とはいえ、そのままではいつまでも作業が進みません。そこで私は、アクリル製の透明なキーボードルーフ(カバー)を導入してみることにしました。キーボードの上に、小さな透明な屋根をかけるようなイメージです。

これを置いたことで、面白い変化が起きました。なんとそのルーフの上が、猫にとっての新しい「お立ち台」という名の特等席になったのです。

猫はルーフの上に座ることで、私のすぐ近くにいられる満足感を得ているようです。一方で私は、大切なキーボードを踏まれる心配がなくなり、安心してタイピングに指先を動かすことができるようになりました。

この透明な境界線は、相手を冷たく締め出すためのものではありませんでした。お互いの領域をしっかりと守る境界線があるからこそ、私たちは傷つけ合うことなく、むしろ安心してこんなに近くで寄り添い、愛し合うことができるのだという、温かな納得感が胸に広がっていきました。

私を大切にするための、小さな余白

このコンパクトなキーボードの傍らには、今、小さな猫のためのフリースペースが確保されています。

お互いの領域を尊重し、ほんの少しの工夫で作り出したデスクの上の風景は、今の私にとってとても心地よいものです。これまでは、相手のために自分が我慢しなければいけないと思い込んで、勝手に自責の念に駆られていたのかもしれません。でも、「私自身の場所を大切に守りながら、誰かを愛してもいいのだ」と、ようやく自分に許しを出せるようになった気がします。

誰かに振り回されて自分を見失う必要はありません。冷たさではなく、ずっとお互いを大切にするための「優しい境界線」を、まずは自分の周りに小さく引いてみる。

焦る必要は少しもありません。明日から、ほんの少しの自分のための余白を大切にしながら、自分のペースで、静かに一歩を踏み出していこうと思います。

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