
黒いボールペンと、20年の空白
夕方の薄暗いキッチン。別居後のアパートのダイニングテーブルは、まだ私には広すぎる。その真ん中に、一枚の履歴書が置かれていた。真っ白な紙に、黒いボールペンが転がっている。
ハローワークの窓口で言われた、あの冷たい一言が蘇る。「ボランティアは職歴になりませんからね」。私の20年以上の専業主婦期間は、履歴書の上ではただの「ブランク」。地域活動も、PTAも、子供会も、すべてが「無」なのだと。
学歴・職歴欄の広すぎる余白は、私自身の空白の時間を突きつけているようだった。家族のために尽くしてきた時間、笑い、悩み、汗を流した日々。それが、たった一枚の紙の上で、まるで存在しなかったかのように消去された気がして、胸の奥がぎゅっと苦しくなった。
勝敗のつかない場所で、私たちが回していたもの
心が折れそうになって、逃げるようにスマートフォンを開いた。ニュースアプリをスクロールしていくと、あのひらがなクイズがまた目に飛び込んできた。
「□□き」「か□□け」「も□□わり」
共通するひらがな2文字を入れる問題だという。最初はぼんやりと眺めていただけだったけれど、ヒントとして「端午の節句に食べるもの」「競技の勝敗」「役割を順番に交代するやり方」とあった。
ああ、と小さく声が出た。正解は 「ちま」。
「ちまき」「勝ち負け」「持ち回り」。三つの言葉が、頭の中でカチリと音を立てて繋がった瞬間、私の思考は、ある一点に吸い寄せられていくようだった。
『持ち回り』という名の、私の確かなキャリア
「ちまき」という言葉が、遠い記憶を呼び覚ます。まだ幼かった子供たちと、端午の節句に一生懸命包んだ、あの懐かしい香り。健やかな成長を願って、一つ一つ丁寧に作った日々。
そして「勝ち負け」。この数年、夫の不倫、そして離婚協議。私の人生は、まるで大きな勝負に負けたかのような息苦しさに包まれていた。社会の物差しで自分を測り、常に「負け組」の烙印を押されているような気がして、呼吸さえも浅くなっていた。
でも、「持ち回り」という言葉が、私の凍りついた心をゆっくりと溶かしていく。
PTA役員、地域の清掃活動、子供会のイベント。誰かが率先してやるわけではない。でも、誰かがやらなければ、回っていかない。だから、みんなで 順番に、持ち回りで役目を引き受け、現場を回してきた。
それは、決して履歴書に書けるような華々しい職歴ではない。報酬もない。でも、私たち名もなき主婦たちが「持ち回り」で地域や家庭の平穏を支えてきた、その確かな手応えだけは、確かにこの手の中にあった。社会の「勝ち負け」という冷たい物差しに縛られていた自分に気づいて、静かな怒りと、それ以上の愛おしさが胸に込み上げてきた。
私の言葉で、この空欄を埋めていく
もう一度、黒いボールペンを握り直す。指先が、履歴書の紙の感触を確かめる。
「職歴」欄は、相変わらず空白のままだ。けれど、その下の 「特技・自己PR」 という欄が、私には別の意味を持って見えてきた。
あのひらがなクイズの注記を思い出す。「正解は一つではない」。
そう、私の人生の「正解」も、決して他人が作った履歴書の枠の中だけにあるわけではない。私が「持ち回り」で培ってきた、他者と手を取り合い、生活を回していく力。調整力、共感力、そして何よりも、諦めずに前に進む粘り強さ。それは、誰にも奪われることのない、私だけの確かなキャリアだ。
窓の向こうには、まだ暗闇の中に、少しだけ明けていく夜空が見える。
私は、もう他人の物差しで自分を測らない。私の言葉で、この空欄を、これからの人生を、埋めていく。
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